女風

一流と二流と

どうもしこたまチンチラみさきですಠ_ಠ

前回「セラピストの自己アピール」について書かせて頂いたのですが、今回の内容はその続きになります。前回の内容を簡単にまとめます下記のようにになります。

「我々が提供するものは優しさや癒しや楽しさなど数値化の出来ないものばかりであるため、我々がいくら自己アピールをしようともそれは不確実で曖昧な妄言にすぎない。その為我々はその妄言にせめて、見せかけの確実性を持たせようと、様々なあざとさを付け加える。しかしその場合皆が皆同じような内容をアピールする事になってしまい、各個人のオリジナリティが霞んでしまう。そして利用者側の立場からこの現状を眺めた場合、確実性を持たない我々の存在は、どう足掻こうと多分に不安要素を含んだ存在として映ってしまう。これは詰んでいるのではないか。」

といった感じです。なんかめっちゃ堅苦しいですね…堅い話はつまらないですよね…申し訳ないです。それでももし、より詳しい内容をお知りになりたい方がいらっしゃいましたら是非前回の記事をご覧になって下さると幸いです。

二流爆誕

当然私もこの渦中にあり、「自己アピール」という形で営業努力をしなければならない立場にあるのですが、そういった狡知で不確実な言葉を発信しようとするときに、私は己に対しての嫌悪感を持ってしまいます。これは私の身勝手な感性の仕業です。その発信がとても恥ずかしくてみっともない言葉を発信しているように感じてしまい、それを回避しようと抗った結果、何のメリットも生まないような自己アピールとは言い難い謎の発信をしてしまうという事が多々ありました。

私のこの態度は二流の態度だと思います。自己アピールは営業の一環で、私自身、店舗に身を置く商品な訳ですから、より多くの人に周知してもらえるような、そしてより多くの人に好意を持たれるような、営業努力を惜しむべきではありません。本来私は己の内にあるつまらない我を通せるような立場ではないのです。全ての負を受け入れた上でもっと口当たりの良いキャラクターを作り上げ、それを的確に運用してゆくことが、一流のパフォーマンスなのだと思います。

しかし私がもしそれに倣ってこの仕事を続けていたなら、私はもっと早い段階でこの業界をリタイアしていたと思います。私が何かを謀らって演じるキャラクターと私自身との乖離に、きっと私は耐え切れないでしょう。

という事なので私は二流に甘んじることにしました。嫌になって辞めてしまうよりはマシなのではないかと思うので、この判断については大目に見て頂けると幸いです。そもそも自分はSMというアングラな界隈から来ましたし、流行りのいちゃラブで本領を発揮できるような若さでもないですし、長髪は無理と言われたら即ゲームセットなキャストですので、自分にはこれくらいの位置が分相応なのではないかと自覚しております。

不適合の意地

二流ではありますが、仕事としてこの場にいる以上は私にもプロ意識というものがありますし、向上心を失ったわけでも、この事実を悲観視しているわけでもありません。私は私なりの努力をしようと思っております。具体的には「私は私でしかないので、私以上のことはできないが私以下のこともしない」といったことを心がけております。「私以外私じゃないの。当たり前だけどね。」的な事です。自分がしっかりと自分でいる事にも、私は意味があると思っております。

「他人からどう思われるか」という事を考慮する事も大切ですが、「自分は何を叫びたいのか」という点に焦点を当てる事にも意義はあると思います。誰に合わせるつもりもなく、ただなるべく偽りのない私自身を発信したことによって、利用者様から「あーこいつ無理だな」と判断されたのであれば、私にとってそれは仕方のないことですし、利用者様にとってもそれはハズレを引かないという点で有益な事ではないかと思います。逆に私は私をなるべく偽りませんので、お呼びして頂いたときには、ご想像頂いた通りの人間がその場に現れると思います。少し後ろ向きな自己アピールではありますが、これが私にできる最大の経営戦略です。そしてここで一番拘らなければいけないところは、私はどのようにして私を偽らないようにするかという点です。何故なら私が私をある程度は熟知しておかなければ、私は知らず知らずの内に私を偽ったことになってしまいます。

先程、長髪が無理と言われたら即ゲームセットだと申しましたが、それなら髪を切ればいいのではないかと思われる方もいらっしゃると思います。しかし私にはそれができません。それは私が何かに媚びる事になってしまい、結果自分を偽ってしまうからです。私は何かを気取っているわけでも、何かに反抗しているわけでも、誰かと自分を比較しているわけでもありません。私はただ単純にこれがかっこいいと思っていて、この状態は私が私としてのベストなパフォーマンスをする為に必要だと思っているのです。それは私の勝手な趣向で、その上私はそれを押し通してしまっています。しかしたとえ誰に何を思われようと、私は私自身にかっこ悪いと思われたくないのです。私は私に嫌われる事が何よりも辛いのです。他者から見たら非常に下らなく、馬鹿馬鹿しい事ではありますが、自分はこうした積み重ねによって自分を偽らずに生きております。それを否定されたり、拒絶されたのであれば、それはもう仕方のない事なのです。

もしもそんな独り善がりな私を好いてくれる方が現れたのであれば、それはとても奇跡的な事だと思います。一流の振る舞いが出来ず、勝手に我を通して、勝手に納得しているような私に、もし共感して下さるのであれば、私はその方に感謝しかなく、それはその方を大切にすべきとても大きな理由になります。この思いを自然と抱ける事は、二流の者の数少ない利点だと思っております。

私がここでコラムを書くときも、なるべく私にしか書けないものを書こうとしております。実際にそんなものがあるのかはわかりませんが、このテーマなら他の人でもいい、私がやっても意味がない、と思うような内容は書いていないつもりでいます。

三流との防波堤

「私は私でしかない」という事を自覚していく上で幾つか勘違いしてはならない点があります。もしスーパースターへの道を断念された方が居りましたら、厚かましいようですがご参考までにご一読頂けたら幸いです。

まずその事を理由に仕事として当然にすべき事を放棄してしまうのだとすれば、それは全くの見当違いだという事です。「俺は俺だから」と言ってただ自身に都合の良い振る舞いだけをしていたのであれば、それは本当にただの自分勝手野郎です。仕事として望まれた事は苦手だろうが得意だろうが、私が私であろうがなかろうが、なんでも精一杯取り組んで然るべきです。それは「旨い」「安い」「早い」すら望めない牛丼屋がすぐに廃れてしまう事と同義です。「私は私でしかない」という考えを持ち込めるのは仕事上ではなく、あくまで自己アピールや自身の在り方やスタイルについてであって、要望を拒否する理由になってはいけません。

そして「私」というものを決めつけない事も肝心な事だと思います。「私はこんな性格だ」「私はこんな人間だ」という決めつけは、ただその人の可能性を奪うことになってしまうと思います。そして往々にしてその決めつけの根拠は曖昧なもので、大抵は本人にとってそうであった方が都合の良い性格や人間性を自分だと思い込んでいるだけであることが多いです。これは《曖昧さ》で記述した内容に等しいのですが、たとえばあなたが「自分は優しい人間だ」と自認していた場合、その根拠は必ず曖昧で不確実です。あなたの性格や人間性というものは、あなたと触れ合った他人の中で自然と芽生えるものであり、あなたからこうだと提示するべきものではありません。

そしてもし「優しい人間」だと自認している方が、誤って誰かを傷つけてしまった場合には、非常に厄介な事が起きてしまうと思います。その自認によって「私は優しい人間なのだから人を傷つける筈がない。よって今ここで起きた不幸は決して私の仕業ではない。」という誤った思考が当人の中で働いてしまい、自分が人を傷つけたことさえ認める事が出来なくなってしまうでしょう。それはつまり、その人は自身の優しさに限界を決めてしまった事になります。誰かを傷つけてしまった場合、その非を認めそれに誠実に対処するということは、人として成長する為に必要不可欠な過程であり、それこそ優しさに溢れた行いだと思います。しかし自身に対する決めつけによってその成長は阻害され、賢明な判断は下されづらくなってしまいます。自己の決めつけというものはしばしば、人として重要な思考を停止させてしまうのです。

左胸の発狂を聴け

自らがどのような性格でどのような人間なのかについて、人は長い年月をかけて知ってゆくものなのか、それとも生涯知れないものなのか、確かな事はわかりません。もしかするとそれは我々が知る必要さえない事なのかもしれません。我々にはただ「優しい人間になりたい」と願う事しかできず、その願いを叶える為に生き方を省みてゆく事しか出来ないのだと思います。なりたい者になれているか、生きたいように生きれているかと日々自問自答を繰り返し、そうして少しずつ人は理想に歩み寄れるのではないではないかと私は思います。もし優しい人間になりたいのであれば、「私は今、優しい人間になる為に最善の行動を取れているであろうか」と毎日己を疑う事が最善であり、人にはそれしか出来ないのではないでしょうか。そしてなぜ優しい人間になりたいと思ったのかという動機について考える事こそ、自分が何者なのかを知る最も重要なヒントになると思います。誰かに褒められたかったのか。誰かに好かれたかったのか。何かに憧れていたのか。正しく生きていたいからなのか。動機は人によって様々だとは思いますが、とにかく自身が何者かを決めつけるのではなく、自身が何者かについての仮説を立て、それを疑いながら否定と肯定を繰り返し、そうして少しずつ暴いた上で「私は私でしかない」と言えるようになれば、二流の道は開けるのではないかと思っております。

そしてもしご自身の正体が自身の望まぬ姿であったとしても、決して悲観する事はありません。人間なんて大抵が独善的で自己中心的な醜い生き物です。それはご自身とて例外ではないでしょう。それは人間が人間として生存してゆく限り仕方のない事なのだと思います。その上で大切な事は、己の醜さから目を背けず、それをしっかりと受け入れ、立ち向かう事だと思います。少しでも自分が望む姿の自分であろうとしたり、可能な限り自分の納得のゆく自分になって生きてゆこうとしたり、そういった己の醜さに抗おうとする姿は、人間の取り得る姿勢の中で最も美しい姿勢の内の一つだと私は思います。

自分は何に喜び何に悲しむのか、何を好み何を嫌うのか、どうなりたくてどうなりたくないのか、そしてなぜ自分はそう思ってしまうのか。一流として生きられない人間は、中途半端に一流の真似をするよりも、そういった事を追求し、揺らがぬオンリーワンの存在として在る方が上手くいくのではないかと思います。「人は誰もがもともと特別なオンリーワン」といった歌詞もありましたが、ただ何も考えず生きているだけではオンリーワンにはなれません。あなたがしっかりとあなたを知って、あなたを生きて、ようやくオンリーワンとなれるのだと思います。

そして一流として生きられないからといって、何も全てにおいて彼らに劣っているという訳ではありません。あなたが唯一無二の存在なのであれば、必ずあなたにしか出来ない事が、あなたで無ければいけない何かが、生まれてくる筈です。むしろそれが生まれてようやく「私は私でしかない」と言えるのだと思います。私もまだまだ半端者なのであまり大それた事は言えませんが、自分探しの旅というのは、別に海外へ行かなくてもできるものだと思っております。

まとめ

この業界も人気商売である為、我々は競争というものから逃げる事ができません。その結果我々はフォロワー数や視聴者数など、数字の多寡に囚われがちになってしまいます。その結果言葉を捻ったり、他を押し除けたりと、様々な謀略を巡らせてしまいます。確かに我々が店舗に身を置くキャストである以上、知名度というものは重要です。しかし我々の仕事の本質は一対一の時間の中にあります。たとえ何千、何万の支持者がいたところで、一対一の接客しかできない我々では、全ての方と向き合う時間を作る事ができません。多くの数字を求める事も重要ですが、たった一人との密度を高める事も同様に重要であり、それこそがこの仕事にあたる上で最も疎かにしてはならない部分だと思います。一流であろうが二流であろうが、一位だろうが最下位だろうが、目の前の人の事を真剣に考えて、出来る事をしっかりやって、選んでくれた感謝を忘れなければ、それが全てなんだと思います。数字なんかどうだっていいのです。私の場合はその出来る事の中に「私が私である事」というものが含まれているという事を、今回はだらだらと説明してみました。

一年半もこの仕事を続けていますと、こうして初心に返る時間の大切さを痛感します。人間というのはやはりダメですね。取り分け私はだいぶダメなようで、近頃は反省の日々で御座います。今回もまたかなり長くなってしまった。ああやっぱり俺はダメだ…こんなダメな文を読んでくれてありがとよ。ではおやすみなさい。

1つ前 1つ後

この記事を書いた人

Misaki
Misaki

ヒメゴト東京在籍のセラピスト。
SMバーやハプバーでの勤務経験やSMショーに出演した経験を活かして色々とやっている。
人間の欲望と教育が好き。
髪の毛が長いことがロックンロールだと思っている。