ホス狂を笑うな

どうも歌舞伎町ですみっこぐらしをしているみさきですಠ_ಠ

このような場所で暮らしていますと日常から色濃く夜の臭いを感じます。金と性と見栄と孤独が入り混じった異様な景色は、今日も愚かな惨劇で溢れていますが、何故だか私はそんな景色にいつも慰められております。どうやら人の愚かさや卑しさには人を安心させる作用があるようで、あの独特の馬鹿馬鹿しさは、私の人生を甘やかすのには打って付けのようです。

しかし少し距離感を間違えると、この見せかけの甘たるさは容易に人を殺してしまいます。未来を曖昧にする事も現実を直視しない事も、この場所は許し続けてくれますが、それにただ身を委ねていても当人の中身は空っぽのままで、そうして目隠しのまま歩き続ければ、いずれは崖から落ちてしまいます。付け込まれぬよう生きる為には、娯楽を娯楽のままにしておく為には、程良い距離感が、つまりは程良い孤独が必要なのだと思います。

という事で今回は、この街の代表者と言っても過言ではない、謂わゆる「ホス狂」と呼ばれる方々について、自分なりの考察を述べさせて頂こうと思います。我々の業界も他人事ではありませんので、これについて考える事は非常に身のある事だと考えております。

狂想開演

「ホス狂」と呼ばれる方々については「身を削ってお金を作り、その稼いだお金の大半を男性に貢ぐ女性」という認識が一般的ではないかと思います。そして彼女たちの多くはそれを続ける事によってその男性との未来が切り開けると考ているのだと思います。

このような女性に対して違和感を持つ方は少なくないと思います。愛する人と一緒になろうという時に金銭を介入させ、まるで買い取るかのような行動に出る事は一般的な常識や倫理とはかけ離れています。仮にもし本気で買い取るつもりなのであれば、身を削るような働き方ではなくもっと効率的な経済基盤を作るべきだと仰りたい方もいるかもしれません。

しかし何故それでも彼女たちはその様な行動を取ってしまうのか。それについて私は以下のように思っております。

当然ですが彼女たちも初めからこのような恋愛の形を望んでいたわけではないと思います。元々は好きな人と普通に恋をして普通に愛し愛されて、そうして幸せになりたかったのではないかと思います。

しかし男という生き物は彼女たちが思うより傲慢で卑劣です。人生経験を積めば自ずと知る事かとは思いますが、ドラマや映画の中に出てくるような男性はこの世の中では希少種であり、当時思い描いた普通の恋というものは、決して誰もが容易く手に入れられるようなものではないのです。恐らくそれが原因なのでしょう。恋というものに寄せていた夢や理想と、突き付けられた現実との乖離が彼女たちを狂わせたのではないかと私は思います。

きっと彼女たちは男という生き物にずっと裏切られてきたのでしょう。与えてくれると約束してくれたものを男たちは与えてくれなかったのでしょう。そしてその時に彼女たちは「それならばお金を払えば、ほしいものを与えてくれるのではないか。」という仮説を思い付いてしまったのではないでしょうか。だってお金さえ払えば世の中の殆どのものは手に入るのだから、それにお金を与えれば彼は喜んでくれるのだから、そう思い付いてしまっても何ら不思議ではありません。

そもそも彼女たちには本気で彼を買い取るつもりなどはなく、ただそうしているうちにいつか愛し愛されるのではないかと期待を寄せているのだと思います。

さらに具合の悪い事に、ホストクラブという場所は個人によるガチガチな競争社会によって成り立っております。それはランキングという形で掲示され、そのランキングにどのお客様が貢献したのかについても分かりやすい仕組みになっております。

そのような思考に至った人間がこのような環境に居てしまっては、金銭によって他のお客に競り勝つ事と求愛行動とがイコールになってしまうのも仕方ありません。恐らくホストクラブのこのシステムは、全てを見透かした上で組み上げられたものなのでしょう。それが如何に残酷であろうと、商売というものは利益を上げる事こそが正義なのです。

ホス狂を笑うな

今しがた私が述べた内容の全ては私の勝手な憶測に過ぎません。しかしこの憶測が真であった場合、彼女たちは本当に愛情を手に入れる事が出来るのでしょうか。愛が金で買えるなどという事は実際にあり得るのでしょうか。

それについて考えるためには、そもそもどうすれば人は愛されるのかについて考える必要があると思います。人は何をきっかけにして他人を愛そうと思うのか。それは容姿か性格か、それとも他の何かなのか。その答えは人によって様々だと思いますがひとつはっきり言える事は、そこに明確な答えなどはないという事です。どうすれば愛されるのかなどと言うことは、この世界の誰にもわからない事なのだと思います。

だから愛に飢えた人々は、いつも途方のない模索を続けなければなりません。スタイルが良ければ愛されるのではないかと思えばダイエットに励み、顔立ちが良ければ愛されるのではないかと思えば整形手術を施し、そうして様々な努力をしながら愛される為の何かを模索するのです。そんな試行錯誤の内の一つとして、「お金を払えば愛されるのではないか」といった仮説を思い付いてしまった彼女たちを、誰も咎める事はできません。愛される方法なんて誰も教えてくれなかったのだから、そしてそれがその人なりに、愛を求めて必死にもがいた結果なのだから、そんな結論に至ってしまっても仕方がないとしか言いようがないのです。

しかし私は、ダイエットや整形といった愛される為の行為と、金銭を与えるという行為とには決定的な違いがあると思っております。

突然ですが、私は三年ほど前から猫を飼っております。飼い出した理由はただ居付かれてしまったからというだけなのですが、それでも三年もの間世話をしています。猫は何故だか可愛らしいのです。しかし何がどう可愛いのかと聞かれたら私は上手く説明できません。とにかく猫はずっと見ていても飽きないほど、ただひたすらに愛らしい。この三年間私が猫を愛で続けた理由は、そんな曖昧なものでしかないのです。

もし私が飼っている猫の容姿や体型が少し変わったとしても、私のこの気持ちに変化はないでしょう。猫がどんな姿であれ、私は君が君ならそれでいいのです。しかしもしもこの猫がお金を運んでくる生き物だったとしたら、私は今のように純粋な気持ちで猫を愛でる事はできないと思います。私は猫に対して金銭を期待するようになるでしょう。沢山お金を持って来たときには喜び、お金を持って来ないときには心なしかがっかりしてしまうでしょう。ややもすればその猫を己の利益のために利用してしまうかもしれません。そしてそんな思いを少しでも抱いてしまった時点で、猫に対する思いはもう愛情とは呼べないものになっているのです。

利害と愛情というものは本来最もかけ離れた場所にあるため、それが混同する事はあり得ないと思います。愛されたい対象が人間特有の弱さや邪さを持っていない聖人のような人間であれば話は別ですが、そうでなければ、人は誰しもが弱い生き物であり、金というものは少なからず人の目を濁らせてしまいます。もちろん私は聖人などではなく、ホストクラブで働く方たちが聖人であるともまるで思えません。よって人に益金を与えて仕舞えば、その人からの潔白の愛情は得られない、つまり愛は決して金では買えないと私は思います。

お金を払ってしまったからこそ、絶対に手に入らないものがあるというのは皮肉なものです。しかし何度も言いますが、これは致し方のない悲劇です。愛を買おうとする行為自体は何も悪くはありません。悪いものがあるとすれば、誰も愛され方を知らないというこの世界の有り様や、誰かを一心に愛する事を躊躇う我々の愚かさでしょう。そもそも彼女たちが求めるだけの愛情を与える能力のある人間がこの世にいるかどうかすら怪しいものです。

狂想成就

では愛を求める彼女たちが使ったお金は全くの無駄であったのか。結局彼女たちは何も得られぬままなのか。それはその相手にも依りますが、少なくとも全くの無駄ではなかったと信じたいです。ここではその根拠を幾つか示してみようと思います。

まず私は、愛情は金では買えないかもしれないが買える感情も存在すると思っております。その内の一つは感謝です。ここに出資するだけの価値を認めてくれた事、そしてそれによって生かせてもらっている事実に対する誠実な思いです。せめてそれだけは相手から得なければならない、得て当然の感情であり、それによって我々の行動は正されるのだと思います。

そしてもう一つは慈悲だと思います。きっとここへ来たまでには何かがあった。この子は散々傷ついた果てにここにいるのかもしれない。そんな推察はこちらの勝手な思い過ごしで、事実とは異なるかもしれません。だけどそれでもいいのです。この身勝手な慈悲は、せめて私はこの人を傷つけないように悲しませないように、可能な限りの優しさを持って接しようという思いの根源になります。真の愛情とは違いますが、その真似事が慈悲によって行われるのです。

そして他の視点から見れば彼女たちの行為にも意味はあると思います。もしも生きるのではなく生かすために、愛される為ではなく愛する為に出資しているのだとしたら、それは何も間違えてはいないと思います。愛する喜びを得る事が目的でお金を使っているのであれば、その目的は十分に果たされているのだろうと思います。ただ、その男に愛する価値があるのかどうかについては懐疑的でいるべきだとも思います。個人的な意見ですが、私も含め大抵の男には愛される価値などないと思います。女性はまずご自身を愛するべきです。

最後に私が最も価値があると感じているものは、そこで作り上げた思い出です。そこで得た思い出というものはこの世のどこを探してもそこにしかない、とても掛け替えの無いものです。それに満足するのであれば、その出資には間違いなく価値があったと言えるでしょう。

そして人は思い出を愛する事があります。同じ綾波レイでもシンジは2番目の綾波でなければ駄目なのです。なんの記憶の共有もない3番目の綾波ではいけないのです。つまりその思い出によって、もしかしたらその愛情の飢えは潤うかもしれない。報われる日は訪れるかもしれない。人はそれを「情」と呼びますが、情も愛情の一端であることには間違いありません。これは見込みの薄いギャンブルです。しかし全く光がない訳ではない。これを良しと見るか悪しと見るかはあなた次第ですが、この界隈が不毛で退廃的であることには違いないでしょう。

しかしだからこそ良いのです。だから自分はこの街が好きで、この街に縋ってしまうのです。いくつもの過ちを冒しながら、なんだかんだ必死に生きていて、それでも辛くて時々死んでいる。人なんて所詮は消耗品だという事を体現しているこの街は、私を肯定してくれているようで、早くこの場所で死んでしまいたいと思うほどには愛しています。

1つ前

この記事を書いた人

Misaki
Misaki

ヒメゴト東京在籍のセラピスト。
SMバーやハプバーでの勤務経験やSMショーに出演した経験を活かして色々とやっている。
人間の欲望と教育が好き。
髪の毛が長いことがロックンロールだと思っている。